南吉に迫る調査活動の記録

新美南吉さんの安城でのくらし

4年1組(M、S)
私たちは、今まで南吉たんけんをしてきました。そこで分かったことを作文に書きます。 新美南吉。本名新美正八さんは、安城市新田町に下宿していました。南吉さんは、安城で先生をやっていました。その南吉さんが先生をやっていた学校の名前は、安城高等女学校、今の桜町小学校のある所に昔建っていました。最初は、半田から安城に通っていたけど、「教員は学校の近くに住むよう」に、と校長会の意向が示され、南吉さんは新田町にげしくすることになりました。二十六歳から新田町に下宿しました。
南吉さんは、本を読んだり、本を書くことが大好きで、学校が終わった夜や、休みの日は、本を読んでいたり、書いていたりしていました。南吉さんは、ぼおっとしている時はありませんでした。そのころは、南吉さんの書いた本は、ぜんぜん売れず、先生の仕事の方が本を書くより、お金がたくさんもらえました。南吉さんは、本が売れなくても、本を書きました。短いお話なんかは、二十日間で三十個ぐらい書きました。 安城は昔、牛を飼っている人が多く、牛が出てくる話は、たいてい安城で書いたと言わ
れます。南吉さんも、牛が好きでした。とくに、のっそりと歩く姿が気に入っていたようです。牛が出てくる話は、たとえば『和太郎さんと牛』、『牛をつないだつばきの木』な
ど。ましてや、『花の木村と盗人たち』なんか、「花の木村」というのは、安城の町の名前です。花ノ木町からとった名前です。ちなみに、半田で書いたお話は、きつねが出てきます。『ごんぎつね』や、『手ぶくろを買いに』などなどです。東京に下宿していた時に書いた話は、『赤いろうそく』、『がちょうのたん生日』などです。 南吉さんは、英語の先生をしていました。でも、当時は戦争があって、英語は使ってはいけなくなり、英語のじゅ業がなくなってすまいました。国語も得意な南吉さんは、国語の先生をやることになりました。南吉さんの作文のじゅ業は、生徒たちといっしょに外へさんぽに出かけて、学校へ帰ってきたら、作文や詩を書くじゅ業でした。たとえば、「風」という題で詩を書くとしたら、ただ風があるだけじゃなく、感じた思ったなどを入れて書くと、いい点がもらえました。作文好きな子は、南吉さんのじゅ業が待ち遠しかったのです。南吉さんは、アンデルセンにあこがれていました。日本のアンデルセンになろうとがんばっていました。安城で先生をしていた約五年間は、生徒といっしょに詩集を作ったり、げきを書いたりして、南吉さんにとってとても楽しく充実した時でした。 一九四三年(昭和十八年)三月二十二日朝八時、南吉さんの二十九年という短い人生が終わったのです。結核という病気でなくられました。南吉さんは、大学生の時から調子が悪く、半田の家へ帰ったこともありました。亡くなってから、南吉さんは有名になりました。南吉さんの教え子は、いい先生だったと思っていました。南吉さんの教え子は、南吉さんのことを調べています。南吉さんの教え子たちで、お金を出し合い、「ででむしの碑を作りました。『ででむしのうた』という詩は、南吉さんが作った生徒詩集の第一号の一ページ目にのった作品です。

生れいでて
まふででむしの
つののごと
しづくの音に
おどろかむ
風の光に
ほめくべし
花もにほはば
よゐしれむ

これが、『ででむしのうた』という詩です。生徒のために作った詩『ででむしのうた』。その詩を石にきざんで、「ででむしの碑」にしました。 南吉さんの教え子たちは、この「ででむしの碑」を見るたびに、南吉さんのことを思い出すでしょう。 南吉さんの書いた話は、時には笑ったり、時には感動する話です。南吉さんのお話の中では、『最後の胡弓ひき』が、一番心にじいいんときて、とてもよかったです。『あし』という話は、とてもおもしろかったです。私は、いつも思います。南吉さんって、とってもすごい人だなあっと、調べていくうちにいつも思います。とってもいいお話をたくさん書いたり、すごくたくさんの本を読むことがすごいと思います。南吉さんは、亡くなったけど、南吉さんの数々のたくさんの作品。その作品を読むと、何かを教えられる時もあれば、笑わせてくれる時もありました。そして本を読む楽しさなども教えてくれます。 南吉さんは、もうこの世にいないけど、南吉さんののこしたたくさんのお話や詩は、多くの人にこれからも親しまれていくことでしょう。

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