南吉のふるさと半田への たんけん遠足

4年生では、半田市岩滑町へ南吉の足跡を訪ねる遠足に出かけました。この遠足は,南吉が 生まれ育った地を訪ねる場であり,これまでの「南吉たんけん」の中間まとめの場でもあり, これからの新たなたんけんに向けての目標作りの場でもあります。
彼岸花が一面に咲き揃い、あたかも赤い布のように広がる矢勝川の土手を歩き、新美南吉記 念館へと向かいました。
「ごんが兵十のうなぎを盗った、場所は、ここらへんかなあ。」と、矢勝川をのぞきこむ子 「向こうに見える丘が、ごん住家のあったごんげん山かなあ。」と、指さす子。からだいっぱ いに、南吉のふるさとの秋を満喫しました。

(A子) 私は,南吉記念館に行くのはこれで3回目です。でも,2回ともくわしく見てなかったの で,頭がごちゃごちゃになってしまいましたが,今度はちがいます。私には,「女学校」と いう大きなめあてがあります。記念館では,ほとんど知らない女学校を調べることにしまし た。 はじめに見てきたのが,生徒と南吉が書いた詩です。私は,"雪とひばり"と"ででむし "しか知らなかったので,すごい発見ができました。(ちなみに,"雪とひばり"と"でで むし"は,昭和14年2月に書いたもの)それに,生徒の詩を,新聞の「黒板詩集」にのせ るなんて,すごい人だなあ,と思いました。それも約1年間。南吉は,生徒思いなのかなあ と思いました。 りょうかん てまり はち 昭和16年に,「良寛物語 手毬と鉢の子」が,東京で出されたそうです。良寛物語の良 寛は,子供好きなお坊さんのことらしいです。で,手毬と鉢の子の物語の中に,その人は出 てくるのかなあ,と思いました。読んだことがないので,読んでみようかなあ,と思いまし た。 昭和17年には,初めて,童話集「おじいさんのランプ」を出しました。私は,「ごんぎ つね」が,一番じゃなかったのか,と思いました。 南吉は,29歳の1月ぐらいから,病気が悪化して,あまり動けないじょうたいで,3つ の作品を書きました。そんなにひどいじょうたいで,3つも作品を書くなんて,すごいこと だと思いました。それに,そんなに物語を好きだってことが伝わりました。南吉は,すごい 人だと思いました。 (T男) ぼくたち4年生は,半田市の南吉記念館に行ってきました。ぼくは,南吉記念館に行って いろいろ分かったことや,良かったなあと思ったことがありました。 南吉記念館では,南吉の書いた童話集の作品の中の,「花の木村とぬす人たち」のビデオ をやっていました。入口には,南吉の書いた童話集のイラストがありました。そこにあった ノートは,南吉の使っていたノートでした。ぼくは,「さすが,南吉記念館だ。南吉さんの 物がいろいろ置いてある。」と,思いました。 てんじ室には,スタンプやサインや,クイズ,半田の地図に南吉の人形があるということ がわかりました。 図書館には,南吉さんのことを分かりやすく説明する本や,たぶん小学生の書いた,南吉 さんの本を写して書いたと思う物がありました。ほかには,南吉の童話集がありました。 ぼくは,「どこから,こんなにたくさんの童話集を,どうやって集めたんだろう。」 と,思いました。「買ったのかなあ。」「もらったのかなあ。」と,思いました。だから, また記念館に行ったときは,聞いてみたいです。 (H子) ぼくは、遠足で南吉記念館へ行った。ぼくは、1学期できなかったことをすべて、2学期 にやってやろうと思った。
行く時、「ごんぎつね」に出てくる矢勝川の横を通った。歩く所は、ぬかる道だったので ここが兵十に見つからないようにごんが通った道なんだなあ、と思った。 南吉記念館に着いた。安城高等女学校のころの南吉を調べた。きゅうりょうは70円とい うこと。今で言うと○○○○円もらっていた。書いてあったことは、知っていることばかり だった。なので、横にはってあった南吉の笑顔を見ていたら、南吉がロバににていた。 南吉記念館に行ったけど、生徒からはどんなふうに思われていたのか、先生たちからは。 南吉は女学校が好きだったのか、いやだったのか、などのいうことが全然書いてなかったの で、がっかりした。 帰りに5分だけ、南吉の生家に行った。中はむしあつくて、天井が低くて、よく南吉は住 んでいたなあ、と感心した。でも、南吉の生家は、1家に二つの店を開いているなんてすご いなあ、と思った。 生家に行って、南吉はすごい所に生まれたんだなあ、と思った。 (E子) 私は、半田にはこれで3回行ったことになります。でも、行く度にいろんな事がわかりま す。 南吉の生まれた家は、地下になっていて、おもしろい家です。南吉は、前の常夜灯で草つ き遊びをしたそうです。楽しいのかな?ごんぎつねのぶたいとなる、矢勝川には、ヒガンバ ナがいっぱいさいていました。 南吉は、自分の身近なことで詩や童話を書いちゃうからすごいと思いました。身近な物を よく見て、詩をおもしろくちゃうからすごい。と、思いました。 南吉記念館には、いろんな南吉が残されていました。シアターでビデオを見てみると、女 学校のころの南吉は、生徒にも人気があったらしく、病状が良くなって、先生たちと富士山 にも登ったんだそうです。そこまで、元気だったのかな。そのまま生きていればよかったの にな、と思いました。 でも、詩や童話を書くひまなんてあったのかな?だってそのころ、戦争がはげしいから、 私だったら、よゆうもひまもないと思うけどな。それとも、南吉が住んでいたところは、地 区に飛行場がなかったから、ばくだんを落とされなかったのかな。 私が初めて知ったのは、南吉が好きだった人!その名は、山田うめ子さん!! そういえば、南吉の生家も地下があるし、南吉記念館も地下っぽいし、両方地下っぽいな あ。ふしぎだな。 南吉のふるさと半田。生まれて育った地。 また南吉を調べるステップアップ。 (N子) 9月30日,南吉記念館に遠足で行った。 南吉記念館では,南吉の作品の,「花の木村とぬすびとたち」の物語をアニメみたいにし て,大きい画面で見れる所がありました。 2学期の"とび箱"になる「南吉が安城高等女学校の教師だったころ」のことを調べるた めに,そのことが書いてあるコ−ナ−へ行きました。「生徒の詩集と南吉の詩」というの表 みたいになったのを見つけました。私は,こんなのがあるんだあ,と思い,よくその表を見 ておきました。あと,昭和13年4月に女学校の先生になったとかいろいろくわしく買手あ ったので,さすが!と,思いました。 そして,図書館で少し本を読んでいたら,あの,大見ふみ子さんのことが少しだけど書い てあったのでびっくりしました。 それから,いよいよ南吉記念館を出発して,生家に向かいました。 「ごんぎつね」のお話に出てくる兵十が,ごんにいたずらをされてうなぎをにがされた場 面のぶたいとなった矢勝川にそって,ヒガンバナにかこまれて行きました。そして,私は初 めて,ででむし広場を見ました。 それから,15分ぐらい歩いて,生家に着きました。中に入ると,かべにボタンがあって それをおしてみたら,この生家の解説(説明)が聞こえてきました。でも,みんなの声で聞 こえませんでした。それから,たたみ屋さんの方には,地下がありました。でも,時間がな くて入れませんでした。そして,また駅までみんなで歩いていきました。 新美南吉のふるさと半田。南吉記念館は,2学期のふみ切り板となりました。さあ,これ からの南吉たんけんへ,レッツゴ−。 (I子) 私は、半田の記念館に何回か行ったことがあるんだけど、いつも行く前に、「よしこれを 見てこよう。」とか、「今度はこれを見てこよう。」とか考えなくて行って、帰って来て何 も分からなかった、というふうにいつもなっていたけど、今度はちゃんと決めてあります。
それは、女学校のころの南吉です。 私たちのグループは、最初に女学校のことが書いてある所へ行きました。おどろいたこと が二つあります。 一つ目は、私は女学校で詩集は十冊ぐらい書いていたのかなあ、と思っていたのに、六冊 だったことです。なぜ、とちゅうでやめたんだろう、となぞに思っています。とちゅうでや めなくて、もっと続けていれば、もっと生徒との仲も深まることだし、いろいろな詩を覚え ることができるし、詩が下手な子だって、それを見て、ちょっとうまい子のをまねすれば、 その子だってうまくなることだし、なぜやめてしまったんだろう、とぎもんに思っています 二つ目は、私は、詩集のことをぶ厚いんだよな、たぶん、と思っていたけど、そこにかず ってあった「雪とひばり」「ででむし」は、すごくうすっぺらかったのです。私は、想像と 全くちがったので、こんなにうすっぺらいの、と思ってしまいました。生徒は、そんなに詩 が下手なのでしょうか。それとも、ほかに理由があったのでしょうか。 次にクイズをやって、新田小がのっていました。私は、クイズにのっているなんてすごい なあ、と思いました。

新美南吉記念館の見学の後、南吉の生家へ立ち寄り、有意義な「南吉たんけん遠足」
を終え ることができました。

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