安城の街に南吉の足跡を訪ねて

南吉の教え子のみなさんから,貴重な聞き取りをしてくる班もあれば,地図を片手に街へ飛 び出していく班もあります。
手がかりは,「新美南吉全集」(大日本図書)中の日記に出てくる商店の名前です。また, 安城市中央図書館のインターネット上のイラストマップです。南吉が女学校の職員室で食べて いた弁当を届けていた食堂(現在は割烹料理店)や,干し柿やカステラを買った店,自分の作 品が載った文芸誌(「婦女界」)を確かめに通った書店など,当時を知る老舗に聞き取りを試 みました。

今日景奈ちゃんの班といっしょに,南吉たんけんに行きました。川本さんに行って,話を してもらいました。「南吉さんは,あまり好ききらいがなくて,(弁当の)はこの中はいっ つもからだった。南吉さんが好きだったものは,玉ねぎのよせあげ。きらいなものは,ない 人。すごいなあ。でも,南吉さんはあんまり食べる人じゃなかった。」と,いろいろなこと を聞きました。 ほかは,むかしから知ってる人がいなかったから,聞けなかったけど,そういう聞けなか ったことを,これからどんどん,?(はてな)をさがしていきたいです。 (S子) 川本に行ってきたよ。いろいろ分かったよ。おべんとうのメニューは,ごぼう,じゃがい も,魚の焼いたもの(煮たりもする)。朝も川本で,朝のメニューは,のり,たまご,つけ もの,少し野菜がついたんだって。川本で出る食事は,ほとんどきれいにめしがって,好き きらいはなかったんだよ。南吉はすごいなあ。それで,だいたいいつも川本で食べていて, 朝は7時から7時半ぐらいに来て,昼は川本が女学校へ配たつ。夜は5時半から6時半ぐら いに来たんだって。 それでね,南吉はね,12銭ぐらいの(いちばん安いの)を,食べたんだって。 どんなものをよろこんだかというと,チキンやカレーライス,天ぷらのよせあげなどをよ ろこんだみたい。 それから,おかわりをしたことないんだって。だから,よく食べないほうだったみたい。 川本の人にいろいろ教えてもらったよ。 (K子) 10月31日の土曜日,土井ちゃんと真知子さんといっしょに調べました。最初に,吉野 屋にとつげきインタビュ−をして,南吉は吉野屋に1,2回しか来なかったとか,うら口で 遊んでいたとか,いろんなことを教えてもらいました。 次に,不二家(日吉軒)に行ったけど,ぜんぜんわからなかったです。不二家の人が,両 口屋ならわかるんじゃないと,言われて行ったけど,そこでもぜんぜん教えてくれませんで した。 (Y男) ぼくの班は,たんけんがおくれているので,行ける人だけで,吉野屋に行きました。吉野 屋は,うらがあり,うらの2階のざしきが,南吉がよく行ったざしきです。2階まで行く階 段は真っ暗で,昔のにおいがしました。吉野屋のうら口で,南吉はよく遊んでいた,と吉野 屋のおばちゃんは言っていました。あと,1,2回吉野屋に行っていたこともわかりました これで,南吉はけっこう遊んでいたこともわかりました。 (D男) 花ノ木橋は、末広町と,花の木町のさかいにあります。大正14年に建てられた。そして 「花の木村と盗人たち」のぶたいです。ここは,花ノ木町の入口です。明治用水にかかる橋 なので、今は地下になっています。錦町小学校の手前で、追田悪水に合流します。 でも、こんなに近くにあったなんて、知らなかったです。 まだまだ知らないことを知りたいです。 (E子)

大きな手ごたえのあった店,名前は残っていても代がかわって手がかりのなかった店,いろ いろあり,子どもたちは喜んだり残念がったりしてました。
手がかりのない店が多くあったことから,子どもたちなりに60年という時の流れも感じた ようです。
私たちは,子どもたちの行動力をたたえながら,食堂での南吉の様子から,食べ物の好みや 体調がうかがえるんじゃないかと助言しました。
東京で学生時代を送り,中央の文壇とも交わりを持った南吉です。田舎町の英語教師となっ てからも,なかなか余裕のある暮らしぶりであったようにも思います。南吉イコール,薄幸の 作家という暗いイメージを少し変えてみるべきかも知れません。子どもたちの聞き取りの結果 から,考えさせられたことです。
このように,班ごとのたんけんは,いっそう熱を帯び,豊かな実りを結び始めました。しか し,班ごとに得ている情報の量や質には,でこぼこも目立ち始めています。そこで,学校に講 師をお招きし,「南吉に学ぶ会」を行うための準備を進めることになりました。

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